常に明かりの絶えないこの街では、せっかくの月夜もネオンに霞んでしまう。

そんなことを言っては、変わり果てた江戸の風景を嘆く客は多い。ここ芳田屋は風流を好む粋人が集う料亭としてそれなりに名が売れているのだが、芸妓をやっているに言わせれば所詮は頭に『自称』が付くただの酒飲みの集まりに過ぎない。

だが、今の隣に座している男はそれらとは一線を画している。
男は小袖に渋い色味の花菱小紋の羽織という出で立ちで、解き下ろした長髪の癖に腰の二本差しが良く似合っていた。そしてその容貌を裏切らず上手に遊ぶ。それを自覚しているのか、男はいかにも馴染みの客といった顔でいつも堂々と店にやって来る。

天人が台頭する今の世は、侍と言えば幕府に仕える役人か攘夷浪士かの二者択一だ。天人の狗とテロリストではどちらを選んでも碌なことにはならないだろうに、芳田屋の主人と女将はそのどちらも上客としてもてなす。意外なことに後者に当たるこの男は、一体いつ目に留めたのか、を名指しで座敷に呼ぶようになってはや久しい。

(こんなに優しげな面差しをしている癖に、何だってやっと平穏に
なった世を乱そうとするんだろう)

気が知れない、と思う。

しかし客に立ち入ったことを訊くのはあまりに野暮なので、男が常連客となった今でも、が男について語れることは酒や食べ物の好みくらいしかない。ふらりとやってきては嵐のように去ってしまう男に心を寄せる己が時々哀れになるほどに、はこの男のことを知らないのだ。

は徳利を手の中で遊ばせながら、盃を空けている男をちらりと見る。すると視線に気付いた男はゆったりとした仕草での方に盃を向けた。

殿も少し付き合わないか。今夜は無粋な輩の邪魔は入らぬようだし、俺も久しぶりにゆっくりできそうだ」

随分と和んだ男の誘いに、しかしは半信半疑に顔を曇らせたまま男を見やる。
この男は攘夷派組織の長として指名手配されているのだ。それは芳田屋の誰もが知っているのだが、お蔭で毎度毎度繰り広げられる真撰組の大捕り物にもすっかり慣れた。

浪士の溜まり場として目を付けられている芳田屋には、真撰組の者が頻繁に巡回に来る。それも決まった時間ではなく突然押し入ってくるので、店の者としては真撰組の方がよほど性質の悪い客だ。当然この男の相手をしているにも嫌疑が向けられ、ひどい時は殺気立った隊士に真剣を突きつけられながらの尋問を受けたこともある。

「桂さん、そんなに油断していて宜しいんですか。どうせ今夜もあの人達はあなたを嗅ぎ付けて来ますよ」

「何だ、殿は俺に早く帰って欲しいのか」

はとても親切な忠告をしてやったのに、当の男――桂小太郎は憮然とした顔でを睨む。しかしとて伊達に攘夷浪士と真撰組の相手をしている訳ではないので、このくらいでは怯まなかった。そのまま数秒睨み合うが、奥の間から聞こえてきた歓声によってあっさりと沈黙は破られた。

桂の連れが羽目を外しているのだろう。そう思いながら桂を見れば、この男も同じことを思ったようで苦虫を噛み潰したような顔をした。

「偶の酒に浮かれすぎだ。……エリザベスは何をしている」

言いながら大小を手に腰を浮かせた桂を、は慌てて引き止める。

「私が様子を窺って参りますから、桂さんはそのままゆっくりしていて下さい」

迷惑千万な客ではあるが、桂はの思い人なのだ。そして桂への追捕の激しさを熟知しているので、この座敷にいる時くらいは気兼ねなくくつろいでいて欲しかった。
しかし徳利を傍らに置いて立ち上がろうとしたは、不意に伸びた桂の腕によってやんわりと捕まえられた。

殿が行けば俺はどうなる」

「どうって……少しの間だけお一人で飲んでいて下さいよ」

それでも手を放そうとしない桂に、は困り顔で座り直す。すると桂は手を放した代わりに縁まで満たされた盃を寄越してきた。燗につけた酒の匂いがふわりと鼻孔をくすぐるが、では喜んでと飲み干す訳にも行かない。はいつも他ならぬ桂の為にと、真撰組を警戒して極力酒を飲まないようにしているのだ。

盃を二人分用意するのは形だけのことと分かっている癖に、一体何のつもりなのかにはさっぱり分からない。微かに湯気が上る盃から目を離して桂を見れば、

殿は、もう俺の許には帰って来ないつもりなのか」

拗ねたような顔で言った。いつも静かに酒を嗜み三味の音に目を細めている男とは思えない、子供のような物言いだ。そういえばこの男の好物は『んまい棒』だったなどと気の抜けたことを思い出すが、桂はなおも真顔で続ける。

殿には俺以外にも引く手が数多あることくらい知っている。
そんな殿があちらへ行けば、奴らはこれ幸いと傍から離さないに決まっているだろう」

そうと分かっていて誰が行かせるものか。低く言うと、桂はの手から盃を奪って一気に煽った。いつもはちびちびと味わって酒を飲む男なのに、とはぽかんとするが、我に返るとなおも手酌で飲み続ける桂の手を取った。

「もう、そんな飲み方はしないで下さい。足元もおぼつかなくなっては、二度とここに来られなくなってしまいますよ」

窘めるが、既に目元が赤く色づいた桂は珍しくも逆にに詰め寄ってきた。思わず手を放して後退ると、盃を置いた桂はの肩に触れてきた。

「そうして俺の身を案じてくれるのは嬉しいが、偶にはエリザベスではなく殿と夜を明かして酒を酌み交わしてみたいものだ」

「桂さん――――」

エリザベスと同列なのは少し不本意だが、それでも桂がこんなことを言ってくれたのはこれが初めてだ。柄にもないと思いながらも頬を染めて桂を見ると、桂も常にない熱を帯びた眼差しを向けてくる。途端に奥座敷の喧騒が別の世界のことのように遠くなった。

(三千世界の鴉を殺し……なんて、唄の中の話だと思っていたけど)

――もし叶うなら、朝まであなたの傍に居たい。
このままでは、何度となく押し殺してきたこの言葉を桂に告げてしまいそうだ。

二の句も継げずにただ桂を見つめるに、桂はそっと顔を寄せてきた。はそれに目を閉じて応ずるが、互いの吐息が柔らかく頬に触れ、唇が重なろうとしたまさにその時。
すぱあん、という襖を開く高い音によって全てが台無しになった。

「な、ちょ、エリザベスゥゥゥ!?何故だ!何故こんなタイミングで
邪魔をするんだァァ!!」

動揺のあまり後退って声を裏返らせる桂に、突如乱入した寡黙な相棒はすっと愛用のボードを差し出した。

『表に真撰組の見回りが。桂さんは先に逃げて』

は案の定……という感想しか浮かばなかったが、桂はおのれ、と歯噛みしながら腰に大小を差し直した。やはりこの男には女と睦み合う時間などないのだ。は肩から離れた温もりを名残惜しく思いながらも、桂と同じく重い腰を上げる。そして、階下から聞こえてきた「御用改め」の声を合図に桂の手を引いて廊下に出た。

「また皆さんで飲み直しに来て下さいね。私達は、いつでもあなた方をお待ちしていますから」

殿……!」

は桂の返答を待たず、その背をそっと納戸の中に押しやって扉を閉めた。

薄い木戸の向こうで逡巡する気配はしかし、やがて響いてきた騒がしい足音にかき消された。桂は毎度の如く屋根へと続く抜け穴から脱出したものと信じるしかない。すると宇宙から来た桂の友は腕だかヒレだか知れないが、とにかく人で言う掌の部分でを労うように肩をぽんと叩いた。

さんも気をつけて』

意外と優しいエリザベスに、はくすりと笑みを零した。しかしボードの端に小さく書かれた文字に絶句する。『あの人実はムッツリなので』などと書かれては桂も立つ瀬がないだろう。気をつけるのはそっちか、とにやりとしてやると、エリザベスも語尾に『笑』と付け足した。

「ありがとうエリザベスさん。あなたも無事に逃げて下さいね」

しかし、言い終わる前に白い巨体は手近な襖の奥に消えてしまった。同時に真撰組に追われた攘夷浪士達が手前の廊下にどたどたとなだれ込んで横切る。かと思えば、浪士が切り札の煙幕を焚いたのか、もくもくと煙が上がった。それを横目に、は寂しさを抱えたまま元居た座敷に戻る。

先ほどと同じ位置に座ると、夜風を入れようと開けていた窓辺から丸い月が覗いていた。
もうこんな刻限になっていたのかと思うと、確かに桂にしては長居した方だ。は密かに溜息を落すと、景気付けにと桂が置いていった盃で酒を空けた。

これから真撰組を相手に丁々発止とやり合わねばならないのだ、しんみりしている場合ではない。酒で程良く気分が高揚すると、はいかにもくつろいだ風に足を崩して三味を弾きながら不躾な来訪者を待つ。

程なくして「カーツラァァァァァ!!」という雄叫びと共に襖を蹴破って飛び込んできた見慣れた顔に、はぴしゃりと言った。

「また一番隊の皆さんですか。いい加減、お越しになる度にうちの座敷を破壊して回るのはやめて頂けませんか」

巡りあひて見しや夫ともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな

2006/9/30 「恋慕」に寄せて。

この場をお借りしまして、素敵な企画を立ち上げられた骨子さんにお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
そして、ここまで読んでくださったあなたに感謝と愛を…!

青 拝